2011年の東日本大震災から11年、ずっと行きたくて行けなかった東北地方に行きました。あの日、あの時、どんなことが起こったのか、今はどうなっているのか?
映像やTVで見るだけで福島を知ってるつもりなのはどうなのか?
ずっと心にわだかまっていた後ろめたさもあり、津波被災地や原子力災害の伝承館などを巡りました。
請戸小学校は2011年3.11のまま残されています。
卒業式間近だった体育館の床は津波で崩れて・・・。
訪れたいと思ったのは、海岸から300mに近さの学校にもかかわらず、2~6年児童83人と下校1年生11人全員が避難できたことをHPで知ったから・・。
説明の方からたくさんお話を聞きました。👆階段に津波マークあり。
海岸を見渡たせた学校は、二階のフロア―まで津波が来た。
屋上のない校舎は、地震の時は大平山に向かって逃げることが防災マニュアルで決まっていた。地震から55分後津波襲来。時計もその時間。
校舎内にあったテーブルや給食用巨釜なども全て津波の力で押し潰され運ばれ・・。
教頭先生が校舎内最終確認され、窓から海を見ると沖から津波が来ているのが見えたという。
今は防潮堤があるところに今日も白波がぶち当たっているのが見え、近さを実感。
子どもたちが山の中あたりの時刻で津波が来た。
山の中を歩いて避難していた時、たまたま通りかかったトラックに助けられた。
景色は今とは違って学校の周りには家々があったのだ。
今は、住む家も通る人も誰もいない。ススキの草原。
2011年のあの日、車いすの児童は先生がおんぶして避難できた。
学校の素早い避難とトラックの運転手と子供たちの頑張りで、全員助かったのだった。
もっと早く、全員が山に到達する前に津波が来ていたら、間に合わなかったという。
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2011年2月22日(左写真)と、津波の翌日写真(右)↓
2022年11月の今、
学校は福島原発から北北東に6kmという近さのため、付近は帰還困難地域も多い。
請戸小学校の再開はもう無い。
全国に散らばった子供たちは、震災以後新たな場所で新たな人生を歩み、今は大学生や社会人となっている。
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生と死は紙一重のようなことかもしれない。
今日の命が、安全が、明日も必ず続くという保証はどこにもない。
毎夜、寝るときに、ああ今日も生きていたな~楽しかったな~、ありがとう・・・ってそれでいいんじゃないかな・・。誰でも最後の日は来る。それが何時か分からないけれど、ラストがいつ来てもオーケー、all right。
私の人生、けっこう幸せ、・・・のような気がするのです・・!(^^)!😊。