am8:00~、鹿児島中央駅前から佐賀県神崎郡の吉野ヶ里遺跡まではレンタカーで一人旅、高速道路は加治木IC~みやま柳川IC、高速を下り、道の駅みやまで休憩する。筑後平野や佐賀平野の広~い平原でずっと続く水田地帯は町の見渡しが良い地域。途中が宮崎や熊本の山あいを通ってきたので地形の違いが分かる。湾岸道路の先は有明海。1時間ほど車を走らせ、筑後川を渡り、築後平野の先のちょっと小高い丘にある吉野ヶ里遺跡公園に到着したのがpm1:00くらい。ちょっと遠かったけど無事到着して見学を始める。
物見やぐらの上から遠くを見ると、ずっと開けた広~い平野だと言うことが分かる。
魏志倭人伝で邪馬台国には小さな村が100余国もあるって書いていたけど、この築後平野ならあったかもと、ふと思ったりした。
パンフレットを見ながらあちこち見学する。
銅剣や銅鐸、鉄製品、青いガラス製の装身具、絹製品の副葬品などが発掘された。
一部は大陸由来の物も多くあり、中国大陸との交流があったのでしょう。
赤いそばの花が満開。弥生時代の人も見た光景かな。
1986年~工業団地計画による発掘調査で大規模な弥生時代の環濠集落の存在が分かった。以後、発掘・研究は続き、吉野ヶ里遺跡公園として公開。しかし今もまだ未開園エリアがある。↓
物見やぐらと甕棺
物見やぐらは遠くからの敵の攻撃を見つけるのに良かったでしょう。
甕棺は、未開園エリアの甕棺墓列には約500基もあり、大きく、1.5m位の長さがあった。また、腕輪や装身具を身に着けた人骨もあり、王や有力者など高い身分の人もいた。
人は竪穴式式住居に住み、食べ物は、コメや蕎麦などの玄米を蒸したもの、イノシシなどの肉、魚、貝類、野菜、木の実などを食べていたので、現代人とあまり変わらず、かえってヘルシーな自然食。
倉庫跡は100棟発見された。
穀類などを貯蔵するためにはネズミ返しのある高床式倉庫で、用途に応じていろいろな倉庫が建てられ、村人は協力して管理していた。村内では社会のルールがきちんとできていたからでしょう。しかし、水田での稲作が始まると、水や土地などをめぐって、村と村同士の争いも多かった時代で、出土人骨には槍が刺さったままや首のない骨も見つかっています。
村を守るため、外環濠には城柵が作られ、乱杭で敵の侵入を防ぐ工夫もしていた。
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1986年の吉野ヶ里(発掘前の吉野ケ里)と今のライトアップ吉野ヶ里遺跡公園
弥生時代と発掘前と今と、吉野ケ里遺跡も変わっていく。
しかし食べ物も暮らしも争いも、電気とインターネットがないだけで人はあまり変わらないように感じる。
邪馬台国の場所が、畿内説か、九州説か、出雲説か、ほんとうは分からない。なぜなら、吉野ヶ里のような王のいる大きな村は、弥生時代には西日本全体にすでにいくつも出来ていたでしょうから・・・。魏志倭人伝から考え、より大陸に近いと言う点で弥生時代は九州地方のどこかに邪馬台国があったと思うのが自然だ。
しかし、時代は流れ、九州は衰退し、古墳時代には奈良・近畿地方に遷都したのかなと思う。そして平安時代で京の都、鎌倉の時代、江戸の時代と、都は移っていった。
今は、日本全国、どこに行っても同じように快適に暮らせ、町でも村でも不便なく暮らせ、身分の差別も無く、まぁまぁ皆幸せに暮らせる日本は素晴らしい。
その原点が、縄文や弥生時代の私たちの祖先の倭国の日本人。今も昔も繋がっている。
ご先祖さまに感謝して精いっぱい生きなきゃ・・・と思った吉野ヶ里遺跡でした😊。