思うように生きる  coolpine19のブログ

夏は山遊び・山登り、きのこがりと軽キャンピングカー、冬は街の暮らし 季節の変化、いろいろな出来事も、つらつら書いています

長岡百穴古墳&真岡まちあるき&町田ゼルビア優勝

読み方は、長岡百穴古墳(ながおかひゃくあなこふん)&真岡(もおか)まちあるき

長岡百穴古墳  栃木県宇都宮市長岡町373-3

畑の先に52基(東群44基、西群8基)の横穴式石室が並んでいるのが道路から見える。1300年も昔の古墳が保存されてあって、誰でもいつでも普通に道路から見える日本はすごい国。

すべて南を向いて開口の古墳墓。造られたのは7世紀前半。玄門のところには扉石をはめ込んだと思われる切り込みを残していて、はじめは扉石があったという。

52墳墓の各室にある観音像は、後につくられたもの。仏像の彫刻がつくられたのは室町時代後期らしい。

始めはお墓で、後に観音様が彫刻された不思議な百の穴の古墳。

長岡百穴古墳にまつわる4つの民話がおもしろい・・・どれも本当かも?と、思ったりします。

①第10代の崇神天皇の皇子でありました豊城入彦命が東方征伐の途中、長岡の地にこられた時、付近の豪族の強い抵抗にあい、容易に征服できず大激戦になりました。この戦いで、皇子の主だった家来百人ほどが戦死してしまいました。悲しんだ皇子は長岡百穴に遺骸を手厚く葬ったといいます。

弘法大師が大谷に来られたおり、これより東方2里ほどのところに長岡という村があり、そこに豊城入彦命の家来衆百人の墳墓があると聞いてさっそく長岡の地を訪れてみました。すると墳墓は、ツタやカズラが生い茂り荒れ果てていました。大師は驚き、さっそく雑草を切り払い掃き清め、百人の御霊を祀るため露出した各穴の奥の壁に観音像を刻まれました。そして、長岡百観音寺を建立し、手厚く弔われました。

③百穴の観音像には、弘法大師一夜の作という伝承があります。大師は99体の観音像を彫り終わった時に一番鶏が鳴き、夜が白々と明け始めてしまったため、100体目を刻むことなく立ち去ってしまいました。

④昔、百穴には百観音寺という立派な寺院があったということです。しかし、この寺は次のような理由で廃寺になってしまったと伝えられています。3代将軍徳川家光の時、江戸城内で諸大名を集めて「長岡百観音寺」の由来についての芝居が上演されました。

家光は、宇都宮城主に観音寺について尋ねましたが、城主は領内にそのような寺はないと答えてしまいました。宇都宮に帰った城主は、家老から長岡に百観音寺が存在することを聞いて驚き、一夜のうちに寺を焼き払うと共に、村人に観音寺のことは口外してはならないと申し伝えたといわれています。

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真岡(もおか)まちあるき  栃木県真岡市荒巻

久保記念観光文化交流館   

昔の日本銀行宇都宮代理店真岡出張所👇

美術評論家・久保貞次郎氏の邸宅跡を、整備・保存し活用している。明治・大正期の建物や文化が分かります。

美術館や石蔵、レストラン、観光物産店などの街歩きができる

長蓮寺 永仁5年(1297年)に遊行二祖他阿上人真教が念仏修行の道場として阿弥陀如来を安置して開山

長蓮寺には日本一の弁財天半跏像があります。弁財天半跏像の頭の上には、人の頭のようなものが乗っていて不思議。😊

岡部記念館 「金鈴荘」回遊式の日本庭園と明治初期の豪華別邸

元々は、真岡の裕福な呉服商がおもてなしの接待に使っていた料亭兼別荘。

今でも住めそうなしっかりした日本家屋の建物で、日本庭園の池には、優雅に鯉が泳いでいました。

庭の東屋に座ると、時間がゆったりと流れます。有島武郎の「或る女」の小説モデルの婦人が此処に住んだこともあったそうです。この時代に生まれていたら、このような暮らしもあったのでしょうね。

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栃木から戻ると、今日は町田市にうれしいニュース(^^♪😊

町田ゼルビア、悲願の天皇杯初制覇!3ゴールでヴィッセル神戸撃破 j1昇格2年目で初タイトル獲得

www.city.machida.tokyo.jp


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⚽ゼルビア初優勝⚽

町サポのボランティアやサポーターでホームタウン町田市から応援しています。