思うように生きる  coolpine19のブログ

夏は山遊び・山登り、きのこがりと八ヶ岳通い、冬は関東の街暮らし 季節の変化、いろいろな出来事も、つらつら書いています

鋸山日本寺の歴史散策

先月の三浦半島東京湾の向こうに見える。
横浜 → 川崎 → アクアライン → 木更津 → 鋸南保田。
房総半島で、三浦半島の向かい側。
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木更津からも富津館山道路が続き、行きは楽々。帰りは、夏ほどではないけど、アクアラインが渋滞していた。
鋸山とは、山全体が日本寺であり、石切り山だった。
日本寺
約1300年前、聖武天皇の勅詔を受けた行基によって725年に開山。曹洞宗の禅寺。参禅道場。
日本の名を持つ関東一円で最大の寺。
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御本尊は薬師瑠璃光如来病苦を救う医薬の仏様。左手に薬壺を持っている。31.5m
鋸山山頂展望台の「地獄のぞき」↓
イメージ 3イメージ 4人が小さく見える場所に下りてみると、そこは凄いパワースポットだった。
イメージ 5イメージ 6石切り場の垂直な壁に百尺観音と祈る人。参道の階段を下りていくと山全体に石仏群。
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東海千五百羅漢とも言われる。
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状態が良くない仏像や首から上を修復したものが多かった。
それは、明治維新のときの廃仏毀釈の破壊の跡だった。イメージ 9
廃仏毀釈」により
日本中で1616の寺が廃寺。
全国で貴重な仏像・仏具・寺院が失われたという。
明治維新の負の部分を知った。
日本にも、中国の文革タリバンやISの破壊活動と同じようなことがあったことに衝撃を受けた。
日本寺の拝観料600円は、本堂や仏像の修復・管理に使われている。
日本寺で修業した僧は、良弁、弘法大師空海)、慈覚。
弘法大師はここで百日護摩行を行っている。
武将では源頼朝
源頼朝石橋山の戦いに敗れた後、房州に逃れ再起を図った折に日本寺で武運を祈願し、自ら蘇鉄を手植えし、現在も大蘇鉄として境内に残っております。頼朝は鎌倉幕府を開くとすぐに荒廃していた日本寺の全山修工に力を尽くし、養和元年(1181年) 薬師本殿を再建しました。」
その蘇鉄がこちら、樹齢800年↓
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その大蘇鉄のそばにあるのが、
目立たないが日本寺の梵鐘(重要文化財イメージ 11
この鐘には歴史があった。
「鐘銘には、初めに下野国佐野庄堀籠郷(栃木県佐野市掘米町) の天宝寺鐘として寄進され、60年を経て鎌倉五山浄妙寺鐘となり、江戸湾を渡って日本寺鐘となった」
鐘には永徳二年(1382年)にこちらに寄進されたと彫られていたので、日本寺の案内所の人にこの鐘についてお話を伺った。
………  ………  ………
この鐘は、はじめ下野の国にあったのを源(北条)氏側が戦いに勝った戦利品として鎌倉に持ち帰った。そして浄妙寺鐘となった。
そのあと数十年、今度は上野の国の里見氏が新田氏と共に鎌倉幕府討幕軍に参加し、鎌倉攻めに加わり功を挙げた。北条氏は破れ、里見氏は戦利品として鐘を鎌倉から船に乗せ房総半島に持ち帰ったというもの。その後、日本寺に贈られたお宝がこちら。作られたのは鎌倉時代なので800年くらいたっている。戦利品が梵鐘。重たく貴重なものだった。